梅の故事
故事とは、古典などに記された熟語の素になったりする物語です。
今回は梅にまつわる故事をご紹介します。
「大福茶」(だいふくちゃ)
一年の無病息災を願う縁起物として、元旦に梅干しや昆布を入れたお茶を飲む大福茶。
その起源は平安時代にさかのぼります。空也上人(くうやしょうにん)を開祖とする京都の六波羅蜜寺に、大福茶の伝承がのこされています。天暦5年(951年)、都には疫病が広まり、多くの命が失われていました。心を痛めた空也上人は、疫病退散を願って十一面観音菩薩像を彫り、曳き車に安置して市中を練り歩きます。
その際、お茶に梅干しを入れて、病人たちに授けて念仏を唱えたところ、またたく間に疫病が鎮まったそうです。時の村上天皇も、このお茶を服して快癒されたことから「皇服茶」と呼ばれ、後の世に「大福茶」として伝えらました。
さらにこの時、お茶に入れた梅干しが十二支の申の年の梅であったことと、「申」「去る」の語呂から「申年の梅は病気が去る」「申年の梅は縁起がいい」「申年し梅には神が宿る」という言い伝えが生まれました。
「梅酸渇を休む」(ばいさんかつをやすむ)
代用の物でも、一時は間に合わせの役にたつことを言います。「梅を望んで渇を止む」(うめをのぞんでかわきをとどむ)、「望梅止渇」(ぼうばいしかつ)も同じ言葉です。
これは中国の「三国志」に記された物語。曹操(そうそう:三国における魏政権の創建者、後の武帝)が行軍中に道に迷い、部下たちが皆のどの渇きを訴えた時、曹操が「前方に大きな梅林がある、甘酸っぱい実がたわわに実っておる。それでのどの渇きが癒せるぞ」と言ったところ、兵たちはたちまち口の中に唾がわき、渇きが癒され、無事目的地に到着したというエピソードに由来します。
「和羹塩梅」(わこうあんばい)
主君を補佐して、国を適切に治める有能な宰相・大臣のこと。
「和羹」はいろいろな材料・調味料をまぜ合わせ、味を調和させて作ったお吸い物。
「塩梅」は塩と調味に用いる梅酢のこと。この料理は、塩と、酸味の梅酢を程よく加えて味つけするものであることから、上手に手を加えて、国をよいものに仕上げる宰相らを言います。
古い中国の歴史書で、儒教の経典でもある『書経(しょきょう)』からの故事です。
「箙の梅」(えびらのうめ)
源頼朝軍の将である、梶原源太景李(かじわらのげんだかげすえ)が箙(えびら)に梅の花の枝を刺して戦った。(箙とは、矢を入れる道具のこと)
『源平盛衰記』による故事から。
「鶯宿梅」(おうしゅくばい)
梅の品種「鶯宿梅」にも故事があります。
村上天皇の御代、紫寝殿の左近の梅が枯れてしまいました。
新たに御所にふさわしい梅を京中探させたところ、西ノ京に住む紀貫之の娘の館に、一本の木に紅白をつける見事な梅が見つかり、それを役人たちが持ち去ろうとしました。
その時、紀貫之の娘が「勅なればいともかしこきうぐいすの宿はと問わばいかがこたへむ」と歌をしたため、梅の枝に結びます。御所で天皇が、この短冊の歌に気づき、「ああ、今頃この梅の枝で羽を休めていた鶯が困っていることだろう。不粋なことをしてしまった。すぐに元のところへ返すように。」と言われ元に戻されました。
この梅を人々は、鶯宿梅と呼ぶようになり、御所では鶯宿梅以上の梅を求めるべくもなく、以来、左近には桜を植えるようになりました。
「梅妻鶴子」(ばいさいかくし)
俗世間から離れて風雅に暮らすことのたとえ。
「梅妻」は、妻をめとらずに梅を植えること。「鶴子」は、子をもたずに鶴を飼うこと。
故事中国宋そうの時代、林逋(りんぽ)は、隠遁して西湖のほとりに住んでいたが、妻をめとらず梅を植え、子のかわりに鶴を飼い、船を湖に浮かべて清らかに風雅に暮らしたという故事にもとづく四字熟語です。
いかがでしたでしょうか?
教訓や観念などを含んだ故事成語もあれば、ちょっとした出来事に過ぎないものもります。
しかし、どれもが記録に残っている昔の人と梅との物語なのです。