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梅花の宴

 

前回コラム記事の中で、日本最古の和歌集「万葉集」に、「梅にウグイス」を題材にした和歌がたくさん収められていることをご紹介しました。そのほとんどが大宰師(だざいのそち)として、大宰府に赴任していた大伴旅人(おおとものたびと)が、天平2年(730年)正月13日に、旅人の邸宅で催された梅花の宴で詠まれたものです。太宰府の役人たちのほか、九州各国の国司が参加し、梅をテーマに和歌を詠み『万葉集』巻五に掲載されました。
 
旅人は、開会の挨拶で、
「中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささかの短詠を作ろうではないか」と結んでいます。
この席で、多くの「梅に鶯」の和歌が詠まれました。
 
梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも
現代語訳:梅の花の散ることを惜しんで、わが庭の竹林には鴬が鳴くことよ。
歌人:阿氏奥島( あしのおきしま)
 
春されば木末(こぬれ)隠れて鶯そ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に
現代語訳:春になると梅の梢では姿も隠れてしまって、鴬は、鳴き移るようだ、下枝の方に。
歌人:山口忌寸若麻呂 (やまぐちのいみきわかまろ)
          
春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家(へ)の園に梅が花咲く
現代語訳:春の野に鳴くよ、その鴬をよび寄せようと、わが家の庭に梅の花の咲くことよ。
歌人:志氏大道(ししのおほみち)
 
梅の花散り紛(まが)ひたる岡辺には鶯鳴くも春かた設(ま)けて
現代語訳:梅の花の散り乱れる丘べには、鴬が鳴くことよ。春のけはい濃く。
歌人:榎氏鉢麻呂(かしのはちまろ)
 
鶯の声(おと)聞くなへに梅の花吾家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ
現代語訳:鴬の声を聞くにつれて、梅の花がわが家の庭に咲いては散っていくのが見られる。
歌人:高氏海人(かうしのあまひと)
 
わが宿の梅の下枝(しつえ)に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ
現代語訳:わが家の梅の下枝に、たわむれつつ鴬が鳴くことよ。上枝(ほつえ)に鳴けば花が散るだろうことを惜しんで。
歌人:高氏海人(かうじのあまひと)
          
鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため
現代語訳:鴬が開花を待ちかねていた梅の花よ、ずっと散らずにあってほしい。恋い慕う子らのために。
歌人:門部連石足(かどべのむらじいはたり)
 
「わが家の園に梅が花咲く」とか「わが宿の梅」とかの表現が多く見られますが、この時代の貴族の庭には梅が植えられていたのでしょうか。奈良、あるいは平安時代初期には、花といえば梅、梅が花の代表であったとがうかがい知れます。
 
梅花の宴の後日、旅人は次の一首を詠みました。
 
梅の花夢(いめ)に語らく風流(みや)びたる花と我思(あれも)ふ酒に浮べこそ
現代語訳:梅の花が夢に語ることには、風流な花だと私は思う、さあ酒に浮かべてほしい、と〔空しく私を散らしてしまうな。酒に浮かべてほしい、と〕。
          
やはり梅の花が雅な花と捉えられていることがわかります。
雅とは、「宮廷風であること。都会風であること。優美で上品なこと」です。 奈良時代、唐をモデルにして、中央集権国家が樹立され、平城京という都が制定され、平城宮という宮殿が建立される。一国を構えていた多くの豪族は貴族として体制の中に取り込まれ、唐風文化を育んで行く。そのような状況の中で、中国伝来の梅を雅な花として捉えるのもまた自然な成り行きであったと思われます。